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黒部の顔 byニコニコタウン

愛本刎橋の復元模型を製作し、落成する仁王門に展示した平野明さん(64)=平野工務店社長


Q 立派な模型、社員の方の製作ですか。
A 結局、誰も手を挙げてくれなかったので、私が休みを利用して作りました。30日間ほどかかりました。

Q 移築された仁王門に展示する理由を。
A 仁王門前の道は江戸時代、加賀藩の参勤交代の列が通った道です。ここは北陸街道の要所で、どの古地図にも三日市の名前が見えます。
建物の前に立って、往時を偲んでください。
黒部の顔』とは・・・

黒部市で毎月折込されている「ニコニコタウン」の人気コーナー「今月の顔」をまいぷれで「黒部の顔」としてご紹介。黒部市でイベントや催し物を主催したり、そのイベントを影で支えている方々にご登場いただき、その苦労話や意気込み、思い入れなどをQ&A方式でご紹介していきます。活躍する方々の顔を黒部市の皆さんに毎月お届けします。

情報提供:ニコニコタウン(2016年5月号)

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仁王門は残った ~ 歴史を伝えるミニ博物館に、そして三日市の『まち歩き』の拠点にも。

旧山内古美術店の仁王門。三日市を訪れたほとんどの人がその前に立ち止まって見上げる店でした。
椚町商店街の富山銀行黒部支店横にあり、その存在感は際立っています。
しかし、同店は平成27年9月に店を閉め、またその建物は現在進められている黒部市の土地区画整理事業の移転対象であるため、存続の危機に陥っていました。
なかなか方策が見つからない中で、市内の有志がNPO法人を立ち上げて保存活動を推進、今月13日に落成式を迎えます。
5月13日に落成式を迎える仁王門
5月13日に落成式を迎える仁王門
江戸時代のものと思われる柱がささえる内部
江戸時代のものと思われる柱がささえる内部
 この仁王門が土地区画整理事業で移転が必要となったため、三日市自治振興会は平成20年、地区要望の一つとして黒部市に「移築保存」を要望しました。
これに対する市の回答は「この建築物は魚津市の長教寺の仁王門を買い取って移築したもので、黒部市との歴史的関連がないと判断されます。
文化財保護条例第9条に基づき、管理保存は地域あるいは所有者でお願いしたい」との内容でした。
 思案が続く中で、市外の人から「売ってほしい」との話もありましたが、平成26年11月に市内の有志15人がNPO法人「立山信仰ゆかりの仁王門保存の会」(植木眞人理事長)を設立、保存に向けて動き出しました。
 「保存の会」の計画では、約10メートル南側に移築し、その後ろ側にかつて市内嘉例沢にあった佐々木家の欅の部材を利用して、集会所を建てることになりました。
また周囲には14台分の駐車場も確保しました。昨年11月から移築工事に着手、今月13日に落成式を迎えます。
集会所の建築費用は会員や黒部中央ロータリークラブ会員などが分担しました。

 よみがえった仁王門の位置は、北陸街道の上街道と下街道の分岐点のすぐそばです。その中には愛本刎橋の復元模型や佐伯有頼の木像、石の仁王像などが置かれ、立山信仰と北陸街道の歴史を伝える“ミニ博物館” となります。
植木理事長は「集会所にはトイレのほかキッチンもあるので、バタバタ茶も提供できます。三日市のまち歩きの拠点として活用していきたい」と話しています。

<仁王門の由来>
 明治元年(1868年)の神仏分離令の公布によって、日本全国で廃仏毀釈運動が起こりました。この動きの中で明治10年、立山信仰の地・芦峅寺にあった仁王像が魚津町の日蓮宗・長教寺に買い取られました。
長教寺では、明治15年から25年まで10年間をかけて仁王門を新築して、その中に仁王像を安置し、大切に守ってきました。
仁王門の屋根の中央部分は重厚な唐破風屋根で、全体は地方では珍しい大型山門風です。
日光・東照宮の陽明門をモデルにして建てられたからです。長教寺の立山信仰に対する畏敬の念がうかがわれる仁王門です。
 その後、魚津大火の後の都市計画で、長教寺は仁王門を保持できなくなったため、昭和36年に三日市の山内古美術店に売却されました。
仁王門は同年6月から解体され、翌年の4月に三日市で再建され、昨年まで山内古美術店の店舗として利用されていました。
 仁王門の階上には、金沢市の釜師・寒維(かんち)の共案で喫茶の席が設けられ、昭和37年9月に竣工しました。
 平成20年6月に行われた富山国際職藝学院の上野幸夫教授の調査によると、「柱など部材の一部は江戸時代のもので、高岡山瑞龍寺の山門と同じ禅宗様式の二階二重門だと思われる」とのことで風屋根についても、「放射状に配置された扇垂木(おうぎだるき)に加え、軒先に複雑な組物を施すなど高度な技術が駆使されている」と指摘されています。
(郷土史家・八木 均)